感想:小田滋『国際法の現場から』

海洋法の世界的な権威であり、3期27年という長期にわたって国際司法裁判所の判事を務めた小田滋氏。この本は、小田氏がその生涯を率直に綴る自伝。日本人の法律家で、これほどまでダイナミックかつ世界的に活躍した例があったとは、恥ずかしながら全く知らず、惹き込まれるようにして一気に読み終えた。

少しご紹介すると、小田氏は、東北大学の専任講師として研究生活を始めたが、マッカーサーの占領下、幸運にも留学の機会を得る。新婚の妻を日本に残し、毛布一枚と小さなスーツケースのみで軍用船に乗り込んで単身渡米。当初は英語もおぼつかないどころか、教科書や教材を買うお金も持たない身から始め、Yale Law Schoolで予定を延長して学び、そこで海洋法の重要性、なかでも海洋資源という問題に気づく。小田氏は、持ち前の物怖じしない性格で欧米に知己を増やしつつ、帰国後は、Yaleで構想を練った、領海論を資源との関係で考察した2通の英文の論文によって、先駆者として一気に国内のみならず世界的に広く認識されるようになる。

私たちの世代の留学がいかに恵まれているか実感するとともに、いくら国際法という分野とはいえ、日本人の法律家が若くして世界的に知られるということは容易ではないだろう。そう思うと、ここまでで十分過ぎるほど規格外かもしれない。

しかし、その後の飛翔がさらに凄い。国際機関で数々の海洋法関連の会議に参加して経験を積んだ小田氏は、43歳のときに、国際司法裁判所に係属したデンマーク・オランダ対西ドイツの北海大陸棚事件において、その若さにもかかわらず、西ドイツ政府から首席補佐人としての協力を求められる。西ドイツに勝ち目はないという噂が流れる中、独自の大陸棚ファサード理論をどのように提示して西ドイツ政府の付託に応えるか、小田氏は重圧の中、国際司法裁判所のあるオランダ、ハーグに飛ぶ。

焦燥と不安にさいなまれた私は、10月17日北極まわりのドイツ航空で東京を発った。コペンハーゲンで乗り換えたSASは北海の上空を飛ぶ。窓外に見下ろしながら、この境界が私の肩にかかっているという重圧である。

(中略)

21日朝ホテルの食堂でイェニケ教授とボン大学のショイナー教授に会った。西ドイツ側チームはイェニケを訴訟代理人、小田を補佐人(首席弁護人)として、以下ボン大学のショイナー、キール大学のメンツェル教授、その他外務省の参事官などすべてドイツ人、ただ一人ドイツ語をネィチィヴのように操るアメリカの弁護士、未だようやく44歳の誕生日を迎えたばかりの唯一の異邦人の私にかかる精神的プレッシャーは誰もが理解してくれると思う。

この日の午前から始まった打合せ会議で、西ドイツ側の口頭弁論に立つのはイェニケと私の二人だけと知らされた。それから数日間の死に物狂いの生活は私の一生で最も強烈な、そうして鮮明な記憶として残る。いつ日が暮れて、いつ朝が明けるかも気がつかない。食事も部屋に取り寄せ、考えのまとまったところから筆記の女性を呼び寄せて英語で口述する。きりのついたところでショイナー、メンツェル教授などや外務省スタッフを呼んで討議をする。肝心の訴訟代理人イェニケは私同様に自分の弁論草案の作成に忙しくて顔を合わせる余裕もない。

歴史を紐解いても、日本人が、一個人として、欧米政府からこのような大事を託されることは稀ではないだろうか。そして、圧倒的劣勢であった西ドイツは、西ドイツ側一同の予想さえも覆して、なんとこの事件をモノにする。私などからすると、この本を手にとった際に想像もしなかった、まるで映画かドラマかというような、檜舞台かつ劇的なエピソードである。

ここから先も本当に盛りだくさん、東北大学法学部教授というよりほとんど日本政府の外交官としての国際機関・会議でのご活躍や、国際司法裁判所判事となるための選挙運動、各国政府関係者・法律家との社交や各地の観光で人生を楽しまれているご様子など、ざっくばらんに書き記されている。日本の最高裁判所裁判官は振り返って何か書き残すにしても、やや抑えた筆致であることが多いが、あまりそういった風でもないので、「国際」「法律家」の2つに興味があり未読の方には、ご一読をお勧めしたい。

最後に、とても興味深く感じた点がある。小田氏は、国際司法裁判所判事としての業務をこう語る。

一つの事件に数年はかかる。当事者双方からの訴訟書面の閲読、時には一ヶ月を超える口頭弁論、そうして全判事によるそのリサーチと裁判官合議、私としては全力投球であった。しかしいつも感ずるのは自らの語学力不足から来ることもあろう。自分の意見で同僚を充分に説得できない、また同僚の言うことを完全には咀嚼しきれない。

法は、言語と密接に結びついている。ましてや、争訟において国益の帰趨を決めるという重大局面、難解な理論と主張が交わされるであろう。机上30センチに積み上がった膨大な訴訟書類の精査が必要な事件もある。欧州の言語を母国語としなかったというハンディは、ときに非常に大きなものだったのかもしれない。

しかし、欧米語の非ネイティブ・スピーカーであったにもかかわらず、小田氏は再選を重ね、10年近くもの間、国際司法裁判所の最先任者であった。勿論、ある分野の類稀なる先駆者だったからではあろうが、言語能力が重要な意味を持つ法の世界でも、日本人が、他の要素で代替して海外で活躍していくことも可能と示して下さったとも思える。