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感想:『競争戦略としてのグローバルルール - 世界市場で勝つ企業の秘訣』

この本の著者の藤井敏彦氏は、通産省入省後、ヨーロッパで日系ビジネス協議会事務局長としてロビイングに従事、また、WTO等で交渉官を務め、多くの国際的なルールづくりに日本側代表として関与された方。

藤井氏は、この本で、ルールを巡る国際交渉での力学と私たち日本が理解すべき戦い方を丁寧に説明する一方、欧米と日本のルールに対する捉え方の違いに関しても、貴重な指摘をされている。日頃から感じつつも、自分の中で必ずしも言語化されていなかったモヤモヤとした部分がスッキリした気分。以下、5点ほど特に印象に残った点を紹介しつつ、感想を書き留めた。

1. 金科玉条になりがちな日本のルール

藤井氏は、日本の法令遵守を杓子定規であると指摘する。

現場は「ルールはルール」と現状を与件として受け入れる。「このルールはそもそも要らないのではないか」といった発想はなかなか出てこない。「日本では『ルール』は金科玉条になりがち」である

弁護士が「金科玉条」とか「杓子定規」といった言い方をするのは、あまり推奨されないかもしれない。ただ、日本では、一般的に、大所高所からの優先順位付けや価値判断はそれほど重視されず、とにかく細部まで徹底的に磨きをかけようという傾向がある。もちろん、多くの場合において悪いことではないが、そうした価値観が法令遵守という文脈で行き過ぎてしまうと、こと新しい分野で未知の問題に取り組むときには、良くないほうに働くことが多い。

法曹界の総元締の視点からしても、日本のルールの「墨守」は気になったようで、矢口元最高裁長官は、

と述べている。外界の進化が著しい時代だからこそ、この傾向の行き過ぎはとても気になるところである。

対照的に、欧州はどうであろうか。

ヨーロッパにおいては法が施行されたからといって、即座に遵守されることが必ずしも前提とされないことがあるのだ。日本の常識からは考えられないことだが…このようなある意味でルールに関する「のりしろ」のある発想は、(われわれには理解しづらい)ヨーロッパの1つの特徴である。

この本には欧州での実例も示されているが、守れない規制は新しく制定されたとしても放っておこうという発想はなかなか衝撃的である。欧州でも、当然、全分野横断的にそのようなやり方が許容されるという訳ではないだろう。ルールの設定に参加したものに共有されている暗黙の了解と、それをもとにしたリスク分析あってのことと思われる。

日本でも、似たようなものとして、道路交通法の速度超過規制では、道路の実情に鑑みて守れないレベルの徹底的な遵守はやらない、少し超えていてもあまり目くじらをたてない、という発想がありそうだ。しかし、古くからある法令が時代に対応していない場合と違い、新しくできる規制に対してそのような柔軟かつ大胆なアプローチで対抗するのは勇気がいるだろう。

ここで、藤井氏が先輩からいただいたという文章の一節が大変に示唆的である。

海外の政府も企業も市民も『ルールは時々の都合でどうにでもなるものだ』という発想をする。彼らはストライクゾーンを少しかすめる、もしくはギリギリ外れる球を投げる術を心得ている。『ルールは金科玉条である』という文化と、『ルールは時々の都合でどうにでもなるものだ』という文化が競争した場合、後者が有利である。どちらが正しいとか、立派かとか、そういう問題ではない。『われわれ日本人は将来に向けて何をしたいのか』という問題だ。

日本のこうした傾向は、藤井氏が活躍されたようなグローバルでのルール策定の場ではとても不利に働くのだろうし、あるいは、もっと広い一般論として、外界の変動が甚だしい時代には、政府や企業や市民がどうやって変動に適応していくかという文脈でも、国全体に不利に働くように思えてならない。

2. 些細な法令違反でのバッシング

さらに、藤井氏はこうも言う。

私がどうかと思うのは、ルールの威を借りるかのように、ささいな法令違反をあげつらって企業に馬乗りになってバッシングする風潮である…ルールと聞くと思わずひれ伏す日本人の心理をさらに強めているのではないかと思う。もちろん、法令遵守を呼びかけることは正しいことである。しかし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということも、時にはある。

ご指摘のように、日本には、その問題でそこまで炎上する必要があるのだろうか、そこまでバッシングをする必要があるのだろうか、と感じてしまう法令遵守関連の出来事が散見される。もしかしたら、ときには、研究者や法律実務家やメディアが、社会に広く知られていない論点を問題提起するために、まずは声高に激しく主張して、社会的認知を得ようとしているのかもしれない。

しかし、このような法令違反を激しく避難する風潮があると、世間の様子をみつつ物事を進めていきたい伝統的日本企業にとっては、新しい領域で「企業が遵守すべきルールの不明確…のため企業活動は萎縮し、新しいビジネスに踏み込めない」といった声があがりがちである。個人的には、確固たる理念や信念があれば、自社の見解を主張しつつ、ルールの不明確な領域に積極的に踏み込むときがあってもよいと思うが(例として、ドワンゴの受験料制度と厚労省の行政指導)、良くも悪くも、それは日本企業の大勢ではない。「企業に馬乗りになってバッシングする風潮」が前述の「規範の墨守」とあいまって、「外界の進化に順応できない」土壌を作り上げているのかもしれない。

欧州は対照的である。藤井氏は、イギリス政府の例を挙げる。

違反の事実があったとしても、すでに企業側で対処済みで、環境にも市場にも些細な影響しか与えなかった場合、当局は「対応不要」で済ましてしまうのだ。違反は公表されないし、罰則も科されない。「大岡裁き」である。もう少し悪質な違反の場合には、当局が企業に一定の期間までに違反を是正する「改善計画の策定」を求める。ただし、この場合にも公表はされない。イギリス政府は違反を見つけても、必ずしも公表したり罰則を科したりしないのである。

藤井氏は、日本社会の傾向としては、ルールが何のためにあるのかという観点は必ずしも重視されず、遵守か不遵守かという二項対立に基づいて、メディアを巻き込んで社会的制裁が下されると指摘する。そのために、企業側は、往々にして、新しい規制には何であれ断固反対である、という反応を示しがちとなる。

これは否定できないだろう。一例として、現在進行中の個人情報保護法改正の議論では、法改正を主唱する学者側に対して、企業側、とくに企業法務の現場が大変なアレルギーをみせているようである(ビジネスロー・ジャーナル2014年5月号42ページ以下参照)。これも、このような不幸な行き違いが根底に潜んでいるからと思われる。

3. 理念なきルール

こうしてルールに対して愚直で忠実な向き合い方をする日本は、しかしながら、一方で、とても即物的・現実主義的な見方をもつ。悪くいえば、ルールとの関係では、表面的で浅薄なお付き合いを好むところもある。藤井氏は、このように言う。

理念や原則抜きにルールは語りえない。このことは何度繰り返してもしすぎることがないほど大切である。なぜあえてこんなことを言うかといえば、日本がルールづくりを苦手とする理由の1つは、理念や原則を苦手としていることにあるのではないか、理念や原則と対面するとつい目をそらしてしまう国民的性癖にあるの ではないか…日本人は、みずから理念を語ることが面はゆいというだけではなく、人が理念を語るのを聞くと、裏に何かあるのではないかとすぐ勘ぐり始める、とても現実主義的な国民でもある。

これも、よい例なので個人情報保護法の改正に即してみると、ここ数年の流れをみていても、どういう理念に基づいて改正に至ろうとしているのか、必ずしもはっきりしない印象がある。 それは、プライバシー保護の強化なのか、次世代産業創出の基盤整備なのか、国際的協調なのか、少なくとも、大所高所からの理念や大原則が共有されていないように思われる。EUのプライバシーに関する歴史的経緯に基づく理念であるとか、EUが何と言おうと我々はこう考えるというアメリカのような確固たる信念は、どうにもみえにくい。ジュリスト2014年3月号の目次をみると分かり易いが、いきおい日本では、乗降履歴販売であったり、技術検討WGの匿名化の議論であったり、医療データであったり、とかく各論を受けての改正の方向性が議論の中心になりがちである。

大きな理念のないままにルールの細部を詳細に検討する日本式のアプローチは、先に述べた規範の墨守や、大岡裁きの欠如につながり易い。理念というものは、必要と思ったからといってすぐに簡単にできあがるようなシロモノではないが、欠けているなら欠けているなりに、そのことによるマイナス面を意識するだけでも、少しは違うのではないか。

4. 役所に法解釈を聞く日本

これは昔から疑問に思っているところで、法案を所管する官庁が制定時に発表するガイドラインや逐条であればまだしも、何の権限もないのに役所が一つの考え方として解釈の指針を提示するといったことさえある(例えば、民法経産省電子商取引の準則)。これは、弁護士側だから違和感を感じるのかと思っていたが、役所側であった藤井氏が同じように仰るので、その意を強くした。

「ルールの解釈」に関する日本の常識と欧米の常識はずいぶん違う。政府の解釈を欲する日本企業に対し、自分で解釈をする欧米企業。「政府がそう解釈してやれと言うなら、とにかくやります」という日本企業の姿勢は欧米企業の目に信じ難いものと映る。法律の前で企業と政府は対等であると考えるからである。

そもそも欧米で行政当局が法律の解釈の問い合わせに答えること自体まずない。法令はすべての国民がそれぞれ解釈する権利を有しており、解釈を統一できるのは唯一司法であって、行政ではない。この考え方が行政庁の側にも貫徹されているからだ。したがって、担当官庁に問い合わせても、「ご自身で解釈してください」と言われるだけだ。法的にも仮に官庁の解釈に従ったとしても、裁判ではなんら合法性の根拠にならないのだから、聞く意味もない。これが彼の地の常識である。

伝統的に護送船団方式行政指導、政官財の鉄のトライアングルでやってきた名残なのかもしれない。今は、ルールそのものが激しく変わっていくような時代である。また、やってみないことには影響を見定めることも難しいだろう論点もある。そういう時代では、役所側も、適切な回答を事前に提供するのは困難だろう。金融庁のように、現代風の役所では、あまりそういった問い合わせに応じないところもある。そろそろ、役所に事前に法解釈をお伺いする文化を変えていく時期なのかもしれない。

5. 日本のルールのガラパゴス化

最近、個人的にもっとも心配しているところの一つ。藤井氏は、このように言う。

欧米と途上国がルールで結託すればどうなるか。欧米でも途上国でもない国が仲間外れになる。それは日本である。日本は孤島と化しかねない。大きな理由は日本のルールの独自性にある。日本は先進国として当然のこととしてよく発達した、社会的特性を反映した規制体系を有している。そのこと自体はなんら問題ではない。しかし、欧米のルールが多くの途上国を席巻するにつれ、結果的に日本のルールの独自性が際立ってくる。

ただ、これは「結託」という意図的なものというよりも、むしろ、日本の中途半端な立ち位置ゆえと思われる。つまり、日本は残念ながら他から参照されるくらい影響力のある先進国ではない一方、独自性を捨て去って他を模倣しなければならないほどに落ちぶれている訳でもない。したがって、どうしても世界の流れの輪から外れ易い微妙な場所にいる。

また、「独自性が際立ってくる」のであればまだよいのだが、日本でのルールは全くといっていいほど英語やその他の外国語で発信されていないものだから、そもそも、世界中の誰もが日本のルールは知らないというのが実情だろう。そこで藤井氏はこのように言うのだが、

日本の顧客にとらわれて世界市場で通用しない過剰スペックな製品ばかりつくってしまうことを「ガラパゴス」現象と呼ぶ。同様に国内ルールだけを見て いると海外ルールに適応できず、国内に閉じ込められる。海外のルール作りに積極的に参加して日本と海外市場を結ぶ橋を架けなければならない。さもなくば 「ルールのガラパゴス」に閉じ込められてしまう。

ただ、これは、実際には至難の技であり、言語とコミュニケーション能力の壁は深刻である。日本に住んで日本語でルールを議論しつつ、海外の文献を読み動向を把握しようという程度では、本当の意味での架け橋になるのは難しいのかもしれない。藤井氏のように現地でどっぷりと漬からないかぎり、海外で実際に起きていることを深いレベルでは把握しきれないだろうし、そのレベルのコミュニケーション能力がないと、本当は日本が行おうとしてることを海外にきちんと発信できないのではないか。

となるとどうすればよいか、よい例なので、再び個人情報保護法改正に関していうと、本当にグローバル化と国際的調和に対応する見直しを狙うのなら、一つの極論だが、明治初期のお雇外国人のように欧米から多数の実務家と研究者をどんどん招聘して雇用し、政府の検討会にどっぷり関与させたらよいと思う。海外とのコミュニケーションの断絶ぶりを思うとあまりにも現実感がないけれど(笑)、必ずや、今の規制環境の閉塞感を打破することができるだろうし、日本側での学びも多いと思われる。

追伸 途中から、個人情報保護法改正の例が多くなってしまいましたが、それはあくまで最近のホット・トピックゆえに例として挙げ易いからであって、必ずしも、現在なされている議論に強く物申したいという訳でもありません。。。