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日本法と日本語の法律実務

半年ほど前に、タイムラインで、法学と翻訳と他言語(主に英語)について話が盛り上がっていた。その際に感じたことを少し整理し、備忘のために残しておきたい。そうして振り返ってみたところ、長期的な視点にたつと、日本語を母語とする者として、日本法と日本語の法律実務の行方に漠然とした不安を感じることがある。

当時、若手法学研究者の方が指摘されていたが、日本では、伝統的に、外国の概念を丁寧に日本語に「翻訳」しつつ議論することで、彼我の基本的な概念や制度の違いをきちんと理解するというアプローチが強いように感じる。そうした外国法の議論を母国語でやれる国はそう多くないだろう。これは、明治以来の日本の法学の蓄積あってのことだろうし、日本の研究者や実務家にとって大きなメリットである。我が国の偉大な先達に心から感謝しなければならないと思う。

一方、外国法に関しては、翻訳を介さずに原文によってこそ理解しやすい部分もあろう。また、適切な訳語の創出・定着にはそれなりの時間も要する。そのため、金融取引法、会社法、知的財産権法、情報法といった、昨今のグローバル化の影響を如実に受ける分野では、時間的な制約故に、カタカナ英語が流入しはじめている。少し挙げるだけでも、コーポレイト・ガバナンス、フェア・ユース、ヘイト・スピーチ等々。そうした状況で、伝統的なやり方が将来にわたってうまくいくのかは少々気になるところ。

さらに、日本式のアプローチは、他国(主として欧米)の法や理論を輸入する側面に重きを置く。そのため、日本の環境で育った研究者や実務家は、日本法に関して対外的に発信する場面で不慣れな部分があるかもしれない。世界第2位の経済大国として地位を確立していた前世紀はともあれ、大きく環境が変わりつつある21世紀、この発信力の拙さの点も懸念されるところではある。

そうした想いを稚拙なツイートにしたところ、当時、玉井東大先端研教授から、以下のツイートをいただいた。これは、まったくもってその通りと思う。

 

 

玉井先生の仰る「国際的な場」の例として、TPP交渉を巡る議論が挙げられるかもしれない。TPPの知的財産権分野に関しては、米国の法学者から、オバマ大統領に宛てて公開書簡が発表された。その書簡は、言語を同じくする英国、その他のコモンローの諸国に限らず、非英語圏でも法律家が読み、さらには日本語を含む、各国の現地語に翻訳され(日本では島並神戸大教授翻訳された)、全世界に広く共有されていった。こうした場では、やはり玉井先生の仰るように、「圧倒的に英語」「英語が使えないと話にならない」という印象は否めない。

水村美苗『日本語が亡びるとき』によれば、経済学の分野では、ポーランドにカレツキという学者がおり、ケインズが1936年に『一般理論』を刊行するよりも一足先の1933年に、『一般理論』の軸をなす経済原理をポーランド語の論文で発表したという。しかしながら、残念なことに、ポーランド語の論文は、人の目にとまることはなかった。水村氏は、以下のように言う。

気の毒なカレツキは、「英語で書かなかった」学者として、のちの世に名を残すことになったのであった。カレツキの悲劇から半世紀以上たった現在、<普遍語>というものが、英語という形を取り、しかも今や地球全体という未曾有の大きな規模で復権したのは、もう誰の目にも明らかとなった…非西洋語圏の学者がヨーロッパの学者のように<三大国語>を読むのは、困難だが不可能ではない。だが、いったいかれらは何語で書いたらよいのか。かれらは<自分たちの言葉>で書いてそのまま<読まれるべき言葉>の連鎖に入るわけにはいかない。かれらの使った言葉を読める学者は世界に稀である。かれらが書いたものが<三大国語>に翻訳される可能性は非常に低い。さらに、たとえもしかれらが書いたものが<三大国語>に翻訳されたとしても、非西洋語が西洋語に翻訳されたときに失われるものは大きい。西洋語を<母語>としない学者が<自分たちの言葉>で書いて、<読まれるべき言葉>の連鎖に入ることは、ほとんどありえないのである。

この文章では「学者」という言葉が用いられているが、実務家にとっても状況は全く同じである。例えば、インターネット時代のプライバシーを巡る状況でも、米国とEUの動きは全世界から注目されるものの、総務省スマートフォン・プライバシー・イニシアティブⅡ(英訳)などの、日本法の動向に注目してくれる実務家が世界にどれほどいるだろうか。

米国やEUと比べるどころか、もしかしたら、日本法は、アジアの中ですら強い存在感をもっていないのかもしれない。近所には、世界第1位の人口・世界第2位の経済力をもち、強烈かつ個性的な法体系によって、米国ですら何かと意識せざるを得ない国家がある。あるいは、オーストラリア・インド・シンガポール・香港・ニュージーランドといった、英米人にとって比較的馴染みやすい、APAC English Speaking Countriesというカテゴリーもある。

法は、各国の文化と社会と歴史と言語に密接に結びついており、本来、それぞれの法域間で大きく優劣が生じる類のものではないはずだが、今の潮流が続けば、 英語で国際的な議論を主導できる勢力と、他国からはあまり参照されない現地法との間で、次第に国際的な場での重要度・優先度に差が生じ、かつては併存して独立していた後者が地盤沈下を起こしていくかもしれない。

視点を変えて、米国発の法文化の日本への浸透度という点でも、私が学生だった20年近く前とは状況が変わっているように感じられる。例えば、現在、米国憲法・著作権法の研究者にかぎらず、一般の弁護士や法学生でも、米国の大法学者 Laurence Lessig の著書を読んだことのある人は珍しくないだろう。あるいは、Lessig の講演をオンラインで視聴したり、日本語訳ではなく原著を読んだ人も研究者に限られないのではないか。

もちろん、以前だって米国の憲法理論や、更に遡ればドイツ民法典など、日本法はいつも外国の影響を受けてきた、という声があるかもしれない。が、明治の一時期を除けば、基本的には、我が国の名だたる大法学者が間に入って、英米法なりフランス法なりドイツ法なりの思想を噛み砕いて、日本語で日本人向けに再構成してくれたのであって、少なくとも、一般の実務家や法学生にまで、直接かつ直ちに外国法の波が到達していた訳ではなかったように思われる。

さらに、法や理論だけでなく、日本の契約実務は、21世紀に入って、強くグローバル化の影響を受けた。M&Aや金融分野では、日本国内の取引でさえ、米国型の契約実務が浸透している。「表明保証」「補償」「クロージングの前提条件」といった英語の直訳調の用語、日本法由来ではない契約用語が、日本の企業法務・金融法務の弁護士の間で当たり前のように使用される。一部の弁護士や大手企業の法務部員は、Working with Contracts (やその翻訳の米国人弁護士が教える英文契約書作成の作法)などを読み、米国実務を直接に吸収しながら、契約実務の技量を向上させている。あるいは、伊藤忠のような歴史ある伝統的日本企業が、米国弁護士として相当なキャリアを積んだ方を中途で採用し、法務執行役員に昇進させた事例もでてきた。

こうした環境の中では、私たちの世代は、日本語の法律実務家・研究者であっても、水村氏の言う「普遍語」を読む際には、以前の世代ほどの苦労は感じないだろう。そのため、ますます、「普遍語」での議論に影響を受けやすくなる可能性がある。しかし、かといって、法のような分野では、日本語と日本文化の中でキャリアをスタートした者は、必ずしも、いきなり「普遍語」の世界でダイナミックに活動できるわけでもない。そうすると、この大きな潮流の中では、下手すると中途半端な存在にもなりかねない。このような「普遍語」の法律実務家ではないことに起因する悩みは、次の10年、ますます大きくなっていくのでないかという気がしてならない。