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プロバイダ責任制限法とCDA/DMCAにみる日米デジタル法制の違いとScalability

日本にはプロバイダ責任制限法という法律があり、インターネット上のユーザーの権利侵害行為とインターネット・サービス・プロバイダーの責任の関係について、一定のルールを定めている。ざっくり実務的に言うと、「責任制限法」の名をとりつつも、著作権侵害であれ、名誉やプライバシーその他の権利侵害行為であれ、ユーザーの権利侵害行為に関して、「他人の権利が侵害されていることを知ることができたと認めるに足りる相当の理由があるとき」には、インターネット・サービス・プロバイダーは免責されない。また、権利侵害が明白である場合は、インターネット・サービス・プロバイダーに対して発信者情報開示請求が生じる。

この仕組みはときに「曖昧」と評され(福井健策弁護士の「ネットの自由」vs.著作権85頁など)、また、現場で実務運用にあたる側からは、発信情報の経緯も背景も分からないインターネット・サービス・プロバイダーが権利侵害の判断をするのは困難との声も上がっている(代表的なものとして、別所直哉「プロバイダにおける対応状況③-実務運用の実態と実務からみた長期的課題」堀部ほか『プロバイダ責任制限法 実務と理論 - 施行10年の軌跡と展望』61頁)。しかしながら、業界関係者の心血を注ぐ努力によって分厚いガイドラインも作成され、人手をかけた審査と(必要であれば)インターネット・サービス・プロバイダーを名宛人とする法的手続きを採ることによって、個別事案ごとに判断を行い、被害者救済と表現の自由のバランスを図ろうという流れが整備されてきた。現場での職人的な努力によって一つ一つ対応していこうという、とても日本的、あるいは、ある種の製造業的な香りさえ感じることがある。

これに対して、米国の流儀はかなり異なる。まず、著作権侵害に関しては、DMCAという法律の下、ノーティス・アンド・テイクダウンという制度をとっている。ざっくり言うと、インターネット・サービス・プロバイダーは、権利者から著作権侵害の通知がきた場合にはこれに応じて削除すれば免責され、その後、ユーザーが削除措置に対して異議をとなえればこれを復活させるという仕組みである。日本に比べて、似て非なる、明確なルールであるとも評される。

次に、その他の権利侵害に関しては、CDAという法律が、インターネット・サービス・プロバイダーに対して幅広い免責を付与している。また、ユーザーにより権利侵害されたと主張する側は、(プロバイダーではなく)発信者に対して匿名訴訟を提起する。その手続きの中で、必要であれば裁判所がsubpoenaを発して匿名者情報を照会し、インターネット・サービス・プロバイダーはこれに対応する。

米国の両制度は、権利擁護と表現の自由保護のバランスの取り方で著作権とそれ以外に関して方向性を異にしており、なぜ著作権だけ特別扱いなのだという疑問が生じる。しかし、インターネット・サービス・プロバイダーにとっての明確性と手続きの安定性は、プロバイダ責任制限法と比べると、ともに大変に高いレベルにある。

さらに、より重要な点として、インターネットの世界にはscalableという発想があるが、この観点から判断すれば、米国の両制度に軍配があがりそうである。あるインターネットのサービスにユーザーが数十万人、数百万人しかいないのであれば、日本のプロバイダ責任制限法の個別審査を前提とするやり方でも対応できるだろう。そして、多大な労力をつぎ込む反面、米国型よりも、総体としてより妥当な結果を達成できるかもしれない。しかし、ユーザー数が数千万人規模になると、上場後の大企業であっても、人員と内部手続きの整備で、現場対応は本当に大変だろう。まして、法務どころか管理部門要員すらほとんどいないスタートアップ企業には不可能であるし、また、ユーザー数が数億人、10億人超となれば、巨大企業でさえ、現場対応は困難を極めるであろう。

反対に、米国型の強みは、ユーザー数が数千万人、数億人、10億人超となったときに、比例的コスト増を避けつつも、総体としては、それなりの結果を達成できるところにある。この下線部が、まさにscalableということである。実務上不可能である、比例的なコスト増を嫌うインターネットの世界の発想と、実に整合的である。

もちろん、この分野の法制度が、彼我の差を生じさせたというつもりはない。しかし、プロ責法の流儀で、ユーザー数が数億人のインターネットのサービスを運営できるかというと、どうだろうか…。あるいは、例えば、Instagramは、facebookに買収された時点で、従業員10人少し、売り上げはほぼゼロでありながら、ユーザー数が3000万人程度だったと言われるが、そのようなメガ・スタートアップの存在とプロ責法の流儀は、どこかで相容れないものなのかもしれない。